前提への懐疑。

斉藤環の『社会的ひきこもり』を出てすぐに買ったくらいだから、ひきこもりやニートへの関心はある。だから、最近、多いテレビのその手の特集も部屋にいたら見ることがある。そのドキュメンタリーで、作り手側がよく聞く「何がやりたいの?」「何か興味はないの?」という問いかけに「……ないです」という応答。これに対してそれが病的であるかのようなナレーション。違和感を持つなあ。自分に固有の欲望がある、なんて幻想は高々ここ何十年かにできたものなのにね。自分の個性にあった仕事があるなんて、思い込みはない方が楽に生きられると思うけどなあ。自分の個性なんて、所詮誤差の範囲内だし。誤差を逸脱した人は才能があると言うんだし、そうでない大多数の人が自分に固有の何かを求めるのは間違いでしょ。
大学時代、教育学関係を学んでいた時も「個性を生かす教育」なんてキャッチフレーズに反発していた過去が私にはあるんだけど。だからといって、ほとんどの人間は取るに足らない有象無象の存在であると言いたいのではない。そうではなくて、社会的振る舞い、欲望、地位、業績などとは関係なく、<私>から<世界>が開けているというこのことこそが、驚嘆すべき固有の事象なのである*1

*1:ウィトゲンシュタイン的世界観の私流の解釈。