いろいろ考える。

この「どちらのシステムにも依存できない酸欠状態」をどう生き延びるかというのは、人間の知的成熟にとってかなり重要な問題だと思う。
 私はこの「酸欠状態を息を詰めて走り抜ける力」を「知的肺活量」と呼んでいる。
(p13)
あるフレームワークが失効してから、次のフレームワークを自力で再構築するまでの「酸欠期」をノンブレス(息継ぎなし)で泳ぎ抜くだけの「知的肺活量」
(p15)
『東京ファイティングキッズ』

ううむ、ためになるなあ。「二十代にやっておくべきことがら」や「人脈の広げ方」なんて、ビジネス書のお題目は私には興味がないというか効かないが、こういう抽象度が高くかつ実践と結びついているお話は良いなあ。腑に落ちるというか。そして、「知的肺活量」を増やすには、実践で負荷がかかって危機としての「酸欠期」を経験するしかないんだよなあ。それこそ、まさに『ドラゴンボール』の修行と一緒で、限界に近い状態で修行をし続けることで、しばらくすると、平気でかめはめ波が打てるようになるし、10Gでも身動きをこなせる、と。*1
大学の頃、人間形成論講座なんてところに属していて、解釈体系の非連続的変換、なんて発表をしていたのだが、まさに、危機的「酸欠期」をどう乗り越えて、あらたな解釈体系(フレームワーク)を構築するのか、ってことを考えていたのだった。その頃、読んでいたら、絶対に卒論やらで影響受けただろう。……ええ、それでも、今の「酸欠期」を泳ぎきれるかどうかは分からない、のである。

*1:ただ、『ドラゴンボール』ほど人間の知的成熟は前後で簡単に優劣がつかないのかもしれない。